水底金波銀波2 1.冒頭

水底金波銀波

                               小林千三

 

 何でも、暗い上り道を歩いていた。匂いの無い風が吹く、遠い夜空の辺がどこか薄青く見える、一人きりの夜道だった。目と鼻の近くにははっきり闇がある。先刻通ってきた山の小道から落ちる脇にあった小さなお堂か社か、木製の古びた屋根にも苔がのっていて、それが、月も無い闇夜に不思議と青く光っていたのを思い出した。
 そう、横に松があった。見上げて、水平に開いた枝の先から針葉を通して見える遠い山脈の、空を一つなぎに切り取って戻ってくる稜線にも、やっぱり厚い青色が光っていた。境界のギザギザしたところが青くにじむように見えていた。どこにあるのか知らないけれど、この山道は高いところにある。だから道のその上を通って行くときは夜空の一番暗いところしか見えない。闇の中で足元の、だいぶ下から水の音がのぼってくる。さっきから何も見えないからその小さい音がものすごい響きになって聞こえる。既に下は水の中だ。こんなに暗いから水の底へ沈むときも、その後も、それきり何でも静かになる。色々なものを内にのみ込んだ水面がゆっくりゆっくりのぼってくる。
 ちゃぷちゃぷり、水に足音を追われて上へ上へ。振り返るとどこに水の線があるのか分からない。混然とした闇の中のどこかで山道の傾きが水平な液体の中へ落ちているだろう。水に入っても道は全く形を変えずに続くに違いない。きっとあの辺りだと目を凝らすと、ちょうどあの小さな青光がゆらゆらとなってふっと消えた。ああ、あそこまで水が来た、屋根の苔が水に沈んだのだと思った。闇の中の水かさがゆっくり増してくる。見つめている内にも水音は止まずに上がってきた。坂道をのぼれば上に洞があるのを知っているから、そこを目指して歩いている。
 もう山の天辺を歩いてきたような気持ちで、それでも坂をのぼり続けた。洞に入る前に辺りを見回すと、ずっと遠いところに青いものが三つ四つ小さく並んでいるのが見えた。地上でも特に高い山々の頭だけが水面を切っておぼろげに光る青色だった。とっくに盆地は水の底。あの青色だって順々に左からゆらゆらしてからやっぱり消えるんだろうと思った。すぐそのうち消えるだろうと見つめていたけれど、なかなか消えない。いつまでも青いものが三つか四つ、ふわふわ遠い空の彼方に並んでいた。足元の水音が大きくなってきて、追われるように洞へ入った。
 洞の中はいっそう暗い。無明の内で一人きりで座っていた。目を開けても閉じても変わらない。耳が慣れてきたのか、水が坂を上がってくる音もそのうち聞こえなくなってしまった。何だかしきりに声がする。俺の声?勿論この洞の中に誰もいないことはよく知っていた。何の声だろう。目を閉じていると、近いところで声が聞こえた。

 

もうすぐ水がくるじゃ―――一つ話を聞かそうか、一つ話を聞かそうか。
 あんた、鱗を見たことがありますか。この辺りは一面途方もない湖でな。大昔のことだ。いや、海の底の貝が山の天辺にはり付いて化石になった、なんてそこまで古い話のことじゃない。恐竜は死んだ、鳥は飛んだ、猿は歩いた、人は服を着た。もう人も獣も木の下を走り回っていたよ。それでも、この辺りの山脈数本は湖の底だったんだね。確かさ。朝陽が湖面に差してさっと輝くだろう、でもまだ対岸は夜の中にあるような湖だったから人によっては海と間違えたかもしれない。けれども、まあとにかく湖が一つあった。山脈の峰が水を止めて、境を無限の葦原と森閑の樹海が争ってね、山と山を幾日もかけて渡る丸木舟が綱の先に浮いていたのさ。舟から綱をたどって、反対側に結び付けた繋ぎ柱は、今日、大山脈の一番最奥の大樹の梢さね。かつて船が波紋を引いた軌跡をたどるのは、天上雲の中にある雪か雨か山彦で、柔かく岸辺の泥で揺れていた水草は砂ぼこりのからっぽです。
 無い。今では無くなったこの湖が消えた話も幾つもあるが、―――まあ詳しくは誰も知らない。話に聞くだけ。何でも一夜の内のことだったのは確かだそうで、月夜の下の地面に染み込んだのか、嵐の晩に竜に化けて雲へ飛んだのか、や、前置き前置き、他の話はこれから話すのさ。
 で、だ、湖が消え去った後の泥沼に大きな鱗が一枚見つかった。何と思う、銀色ノ巨鱗ソノ輝クコト客星ノ暗中雄飛スルニ似タリ、知らないだろう、これからのお勉強だ。ちょっとは学んでみるがいい。山の下の社が作られたのもその時だ。見たことあるかと言ったのはこの鱗のこと。
 今でも鱗が見つかることがある。山を削る大雨の翌日、眩しく輝く淵の下、よく探すと水面と同じ色の輝きが見つかる。実は十分に人の知る話で、詳しい者では、嵐の度に山の方を見上げてうずうずしている奴もいるよ。そういう手合いの家には箱があるだろ、その箱を開けると手の平大の平らな鉱石が収まって並んでいる。粉をふいた貝殻かとも思うが、それも昔は鱗だったには違いないのさ。
 雨に頼るまでも無いんだ。本当は。二十日の入道雲が赤山に影を落とす真夏の日盛りに、ほっと空から涼しさがかかったとき、山の彼方に鱗が透けて見えることがある。なんと巨大な魚かと思う。池の魚が水面のきらめきを慕うように、頭を仰ぎヒレをくゆらす大魚の姿が長い山の上を悠々と泳いでいる。しかも一匹じゃない。群れて幾匹も幾匹も大きなのも小さなのも雲の影から逃れるように陽の下で空をゆっくり。鯉か鮒か、あるいは金魚か、太い腹の下で伸びたヒレがばさりばさりの優雅さよ。
 見たことがない、知らない?そうか知らないか。この魚達は太陽のうらうら陽差しが好物な代わりに低いところ、暗いところは大不得手でね、例え芥子粒みたいな火でも、あればそっちへ、少しでも明かりのある方へ頭を向けるんだ。燃えるような物が大好きなんだね。熱した乾いたもの、陽の反対には陰が在る道理で、大概身体の下半分、尻尾の方は暗がりに入っているんだが――――――暗いとこ寒いとこに半身を置いて、明るいもの暖かいものに向かって頭を寄せ合い皆でじっとする居心地の良さはあんたでも分かるだろう?線香花火みたものだ。は―――知らない?
 ……ふん、冷たかろう、その岩に手の平は。かつての大湖の底は人跡絶えた深山に霧雨が降る度に苔の下から意識を開くわ、目を開く、黒光り、海坊主、無数の甌穴水溜まりで睨むんじゃ、なめらかさ、真っ黒なその表面は長年の間に輪をかけてすべっこくなった。つるつるの流痕を撫ぜてみれば水の冷たさは知れるはず!……。きっとこの穴だって奇岩巨岩の根元で小石がぐるぐる回ってできたんだろう、泡も含まない暗い太い水流の下だ、静寂な渦だ、おややっぱり湿った小石が二つ三つ落ちている。見えはしないがカチャリと鳴った。まあ少し背を楽にして睡るがいい。もうすぐ、水が来るが、まだしばらく大丈夫だ。
 静かに洞の空気が動く。まるで寝息のような。ぐるりと視界が横に逸れる。そこも暗闇。かあっと白い強烈な光が身体をのむ。

 

 目蓋の裏の静けさの、夢の舞台は暗転し、物の輪郭に沿うわずかな線ばかりが残る。地平の反対から青いものがせり上がってくるのを御覧な。涼しい。薄暗く吹き抜ける青い風に青い山、夜夜夜の膝の下で揺れるのは草原の穂、これも青色に。根元のすべすべした小石がかちかち音を立てる。宵の青だ。時も空模様も宵の口、深い原野も鬱蒼と茂る木々も一つ一つに青い闇を込めて。前後の森が黒に固まりツンと触ればオンと泣きそうに見える、そのぼやぼや模糊の上にさらに模糊を重ねた大模糊の膨らんだ青色が森から森への渡りに流れ出したんだろう、土の上、集まり凝った痩せ草が原を為し広大な光の面を溜めた。月の下で風に各々が吹かれても光の水面は揺れないとさ。ちょうど、水銀灯の下の流れの砂のよう。草原の中を柔かい土の道が真っ直ぐに通る。草の穂にもぐって泥土の色がちらほら、丘の森へ入っていく。草の葉は皆一様にとがって、雫を垂れて。ここ数日雨は無かったはずなのに不思議なこと。
 かさかさと老齢で曲がった腰で草を弾きながら婆が一人でこの原を歩いている。垂れた背で上身は腰から横に突き出たようにかぶさり、顔は前を見ちゃいない、あれじゃ土と草しか見えない。鼻を利かすとでもいうように、風と同じ速度でサ―――っと原の中の一本道を、草を揺らしながら通っていく。
 お屋敷の方へ行くのだ。例の魚を何とかしたくって、魚に何とかしてもらいたくて、ただそれだけが頼みで訳も分からず紅葉様のお屋敷の方へ行くんだろう。
 森から腕を出して婆の肩をむんずと掴んだものがある。正面から押し止めて、こいつが無意識という奴だ、太い腕をして高い背をして黒入道坊主ぞ、ちっとも様子が知れない。婆を通してやればいいのにとも思うが、婆の方でも急いでいたばかりで行く先もよく分からなかったのか、男が優しく婆を来た道へ押し返して、結局二人青色の草の上を歩いていく。背景を塗り潰して片方に森がありまた片方にも森がある。婆が向かおうとした森に何が在るのかは分からない。男が押し戻していく道はすぐ森の木の下へ入った。ここ数日雨が無かったのに色んなものが濡れてぽたぽた滴を垂れていた。不思議な事が起こりそうじゃないか、誰かの通った道なんだ、気配が知れる。古い道が堆土を洗われて出てきたのかな、しかし雨ではない、するとこの葉についた露だけが?雨が降ったらどうなるのだろう、また草が寄せ合ってかえって道は隠れるのかな、それとも長く広く伸びるのか。
 

 
 婆が目指していた森は背後に遠ざかり行くが、地平まで暗く黒く、輪郭から離れて今にもドロリと崩れそうな様子。その森も空も潰れて一偏の色も無いかに見えるのに、それでもじわりと赤がにじむ。火の朱だ。婆がそれを見て森へ入る直前肩から腰まで震わせもがく。大男は頑として聞かない。一層速度を上げて森へ吸い込まれるように平行に動いた。
 大丈夫まだ巨魚は来ないと男が言う。婆はそれを聞いてまた静かになった。大屋敷にいらっしゃる紅葉様はまだ庭へお出でにならないし、庭の大櫓の下には現まさに何百本の、土根と葉を付けたままの神木老樹と油壷が並べられている最中だと、その周りでは人も獣も飛んだり跳ねたり座ったりしながら首の痛むまで雲厚い夜空を見上げているのだと、それを聞いて婆の身体は硬くなった。
 婆を抱えて大入道の走る森の中。小さな丸い葉がそこらでボンボン咲いている地面を突き破って数多の巨木が真っ直ぐ空を押し上げている。はりつく枝と葉が幾重にも重なり道はせばまり進むにつれ見る見る林間に冷気が充ち始めた。ところどころ明るいというのではないが部分部分がはっきりと見える瞬間があって、それで婆の顔の方はふと詳細にうつるときもあるけれど、男のことはちっとも分からないのだ。話す声にも掴みどころが無い。ほらまた、風が吹いて葦葉が押されると水の中の根元の茎が動くような声で。婆の肩を押さえ、森の中を過ぎる。
露がびっしょりの大木の幹に手を乗せ道を廻っていく。数歩かけてまだ白い指が樹皮を離れないほどの大木。ようやく離れると、土の道が消え、幕が落ちたように、裏に隠れた小径が代わりに現れる。まるで来た道を折り返すように大木を回って別の道を行くのだ。道はますます暗く、深く、狭く、頭上の端から埋もれていく。葉で蓋をされた小径は丸いすべすべした黒い小石の道。小石同士がぶつかる音と、石の間に溜まった水の跳ねる音が鳴り始めた。
 空気の層が透明なまま違うものになった。大昔にはこの径を舟が通っていったのかもしれない。頭上を舟の腹が抜けていくのが見えるようだった。陸から湖水へ、黒砂利の底が斜に水底まで消えていく。乾いた舟と湖の岸まで導引く、底の小石の長く沈む水路があって、次第に水面と底が合わさりついには玉砂利の積もる道だろう。当時もやはり樹に櫂がギィギィこすれて鳴ったろう。狭い水路の玉砂利が水気を吸い日向へ出て、戻るときにはザバンと波へ受け渡す、舟と何度も何度も往き来し、その度に石の表肌は白くも黒くもなったろう。水が糊で留めた古い森の下の道だ。いつまでもこの道は冷たかろう。カチャリカチャリ音が鳴る。やっぱりそうだ、石の音に、誰かがこの道を通ったことが知れる。先にも後にも一本通が鳴り続けているもの。……。