水底金波銀波2 2. 森中から巨大魚

紅葉様だ。道の中を白い筋が一直線に走るのが見える。そう……婆の目にはありありと映る。紅葉様だ。森の闇がスパリと切れる。
 水に跳ねた音が散って眼前に光った。岩と岩を通り過ぎて覗き込んだ光がいつまでも焼き付くように、チリチリと―――熱気を浴びる。
 道から切れて落ちて婆の視界へ光が入る。濁流が草を飛ばしガラスへ飛沫を散らしたような晴れ空へ。闇の道を走りながら。
どうやら瞼の裏に夢見るらしい。紅葉様が初めて姿を見せた三年前の夢ということはずっと前から、すぐ知れた。

 

―――目蓋の裏に見える世界は盛夏の光の渦。所は木深い真夏の山腹、白崖には緑や黒が夏模様を綾なす渓流の、小さな木橋。紅葉様が通る橋……。
木影の下にあり、立ちのぼる冷涼な水気で水滴がつきもし、橋は黒々としている。橋一枚下には目もくらみそうな高く伸びる崖の白い壁。上には森の端の葉先も眩しく陽光に輝くから、橋はいっそう黒くて。橋板がくるりと回りそうなくらいの遥か下で谷川は糸のように細かった。のぼってきた涼気が暑気を払う。白砂利が透ける山川を所々の大岩が塞き止め、泡が清くはじけるとそこらの木にまで滴をつける、枝の葉がしっとり重くなる。
 水苔がからむ橋には右からも左へも厚い葉が被さる森の道が続いていた。高くから漏れこむ光が石や落ち葉を飛び飛びに……、みるみる暗い細道へ。この谷まで方百里、森雲押し寄せる中で唯一の切れ目なのだ。木影に包まれさやさやと、今その橋の上で一番濃いところに包まれてしゃがみこむのが一人。いたぞ、それが折しも森を抜けていく紅葉様の姿で。光って見える、ぼんやりと、紅葉様……、小作りな背中、白い手に細い杖、背負う四角い藤籠、頭に大きい市女笠、名の濃さにも似合わない真白な装束は、籠と笠が重たそうに見える。闇森に濃い陰ができていて、婆はこっそり見つめていたのさ。三年前の山の中の蝉の声を谷川の水が一息にぬぐい去って、水削る震えが轟々と橋も森も分かたず。…………。
 その小橋は割った大木を横にしただけで幅なら多少ともあるが、内は盛り上がって外は下がり、その丸みで雨水を排す造り。紅葉様も、しゃがみこむのは不安定じゃないか。杖を使って背中の籠と端の間に釣り合いを持たせて小柄な……、ずっと止まっていた。何が見えるのか。陽の光で受けた広葉樹の葉が風に吹かれててんでばらばら裏表に―――風の声も枝打つ音も全部水の響きに飲まれていく。夢だものいつまでもそのまま。景色も響きも轟轟と流れた。大きな山の影を背景に、橋の上の紅葉様はふい立ち上がり歩き始める。
 暗闇で脚の下の大男が走って行くのが大きく衝撃れた。
 杖の音がコツコツ鳴る。それを待っていたかのように周りの山で無数の葉の色が真赤に燃えて、谷も橋も染め上げる。焼けつく夕日の長い影法師。白い姿は朦朧と縮み上がる山影へ―――森の奥へ消えていった。それから誰も行方を知らない。
「あれは蝦夷の娘が東から来たらしい」村口の賽の石で男が布端をいじりつつ。
「南の海の向こうの鬼だから……」隠れんぼの子供が隣の幼子にしゃがみこんで。
「都から追われた大層な貴種の―――」寺の脇で汚い修験者がダミ声を。足元のフキの葉から虫が這う。
 ふらりと旅荷姿の女一人、村を抜け山を越してきたあと確かに紅葉様はここへいらしたのだ。

 

 暗がりで婆は泣くらしい。婆は足元へ濡れてきた水へ触れるのが怖いから、顔をくしゃくしゃにして男に負ぶさっている。両足が男の脇下に突き出して前に揺れて妙に生白い。婆は水が来る前から男にしがみついている。婆の髪はまたやけに長い。山を一巻きも二巻きもできそうな黒髪が、これは見事なものだ、スカスカの婆の顔から離れるなり豊かに宙に満ちうねり背後の緑の闇へ流れて消えていっている。常に引っ張られているようなものだった。森にも絡もう、草原にも延びよう、闇に失せては見えないが、ひょっと本当に山々をのたっているのかもしれない。闇が全て婆の髪となってもぞりと動く。地に触れぴちゃりぴちゃりの葉の天蓋は暗く低く低く溝に落ちこんでつながり左右の森はいよいよ茂り……道の先はどこへ続くのか、石は鳴り続ける、いつまでも森の奥には溜まった水の気配がする。
 水気森に満ち道は次第に木々と土と天のふくらみの中へ潰されていくようだった。男は歩を緩めることなく、飛ぶようにズンズンと進んだ。道の奥に聳え立つ真暗闇があるのは、きっとあそこまでは辿り着けないのだろう、いくら走っても走ってもあの暗闇までは行き着けまい、それほど小さい、それほど巨大い。とうとう天を閉ざし左右順応に狭まる道を為してきた木々が白い顔で振り返りここまでだ、枝をこちらへ剣術腰で突き出した道の終わりの一点で、男の足が大きな石を踏み付けた。
 閉じた袋の縫い目で包みは薄く解けるものか、森の天頂はそこの葉と枝の頭上からさらに雲の峰一つ乗せたほど厚く生い繁っているはずなのに、間を透いて青い月光がこの辺りを照らしている。古い屋敷だ。年代物。思うに、大昔に山から転がり落ちてきてここへ座ったのだね、大方もう無い都の名残りだろう。大昔の柱も屋根も腐り、床は抜け真夏の干魃中でも何かの拍子でポタリと一日一滴は垂れそうな……ボロボロの廃り跡。この小屋の大きさは、さあ?戸口の他はどこからが森か、埋もれて同化して、奥までこの形が続きそうでもあり皮一枚被っただけを裂いたようでもあり、全く。緑と土の腐った匂いの……さっぱり分からんよ。
 さて、ここへ入る。現代なら何だ、何と言うんだ……街灯に照らされた霊園の墓並だ。怖いところで何か立ち消えた嫌さの残るあの感じ、しかも夜だよ、月が葉を透く青い闇だか明かりだか、虫も鳴かないこの屋敷にも入り口の前に大きな、それでいて平らに背が無くて幅が広い四角い石一つ倒れているのが、端はくっきり内はぼやぼや、それが寂しい道の終わりの礎石だった。はっと見上げて青い黒い森の中、静けさに潰れて木造物が腹まで裂ける口を開ける。固まって閉じない。その暗がりの中に、大男は土足で。ここも道だ。
 


 上がり口こそ明るけれ、面で切ってすぐみしみし音のする奥へ三角廊下。言うまでもあるまい、どっぷりと。内から遠ざかる口を返り見た婆の目には、影だけが浮いて、廂を呑む草木宙折れ廊下古落葉新芽、海底のペンペン草が揺れ風の影が巻き大量の蔓が絡まる世界に色は無いよ。尖るのも丸いのも黒一色に……青もにじむのかな、不思議なかたまり。奥の暗いところで巻きつく蔓から青い花だけが何だか光っていた。
 山へぶち抜いた古屋敷の廊下が終わらない。後ろで濃い闇がうわんうわん吸われるように閉じていく。廊下は暗く、厚い布団がくるまった重苦しさ。男が恐ろしい速さでその中を進んでいく。足も動いている気配が無いのに……あくびが出るの……何も見えない。ふわりと粒子が漂う、息の均質な暗闇がときおりぐっと詰まりうんと思う間に離れるのは、曲がり角を避けるのだ。間隔がだんだんとせばまり、曲がる度曲がる度角を七つ八つと数えていって―――とうとう気が付くと長い長い一本道、駆けて行ってようやく分かるんだ、音もせず、揺れず、見えず、底の底という山の下。
 道が終わらない。ミシッミシッと板の軋みは一緒に付いてくる。自分の身体がバラバラになったよう。おや。離れていった。足はずっと後ろの通り過ぎたよく分からないところをしきりとまさぐっている気がする。……。
 小さな明かりが足元で揺れていた。
 婆は庭に面した座敷の敷居を踏んでいた。見知らぬ四角い小さな庭に植物が茂る。暗い廊下からわずかに淡く浮いて柱や敷居が輪郭を持ち、青い外世界へ抜けている。廊下の……通り過がりの部屋なのだ。座敷の向こうの木々の青臭さで婆は大男の背に手を回す。


 
あくまで森の中なんだろう、数歩もかけず渡れるような小さな庭はすぐそのまま大木となって上へ消える。
部屋の奥の壁がもう外なのだ、そうして縁から庭へ落ちる。部屋はひびの入った土壁で、左の方に小さな文机が置かれていた。古い時代の、ほら、前に正坐して手紙書物に筆を乗せるための小さな平たい机のことだ、畳と障子の格子の影が似合いそうな硯石の黒さのそれが、今は染みのように剥き出しの白い床の上に一つだけあって、上に竹で編んだ目の粗い鳥籠と花とを載せている、狭い机上だけれど花は直に机に伏せられていて大籠の中は空っぽ。大きな頭から長い蔓を伸ばして切られたたった一輪の花が目の覚めそうなくらいに青い、青い―――!その机上の籠の、編まれた竹と竹が交わる継ぎ目からキリキリキリキリ―――か、ヒィヒィヒィヒィ―――か、虫の鳴くような音が聞こえていた。腹の底が冷たくなるようだった。竹と竹がこすれて鳴る音ではない、それよりもっと遠いところからすぼまってきた同心の円があそこへ縮まり詰まったときバチンとはじけて音が鳴るようだった。机上の真っ青な花の茎と葉の間に知らない色がにじんでいるのを見て、少しだけまた周りが暗くなった。
 床の上をつるりと動くものがあった。白い……素床の上に……床一面は白い花。いや床一面とは言い過ぎた、それでは何だか白いラフレシアでもばくりと口を開けて床に生えているようでおかしい。何も無い部屋の、床の上に小さな花が散り敷かれていると言うんだ。ぽつん、ぽつんとね。庭から吹き込んで散らかりでもしたのか、とても小さな花が塵のように落ちている。茎や葉や実は無く、白い花弁だけに見える。白ユリや白菊なんて大きくて恐ろしいものじゃなく、桜の花弁一枚をもっと細かくした程の大きさしかない。背の高い草の先にビッシリ咲き誇ったり、低い高山植物がそっと咲かせたりするような手合で、やはり風に吹かれてザ―――ッと散っていく様子が目に浮かぶよう。無数に散らかっているのが波のようにチカチカして―――中央からそろったり列を為したり回ったり―――目の錯覚で視線が定まらない。視界の外は暗いんだか明るいんだか。布を横から押すような風が吹いてくる。目の焦点が開かれたり絞られたり、花はひたりと床の上で、今更そんな風では動かないんだ。その風も止んで、静かなはずなのに…………床の花弁が動いて見えた。
いや確かに一箇所動いて見えるぞ、蜂、蜂、蜂が一匹もがいているのだ。真ん中で小さな蜂が六つ足で花弁にしがみつき短い黒毛の腹をブンブン振っている……その小さな身体に比べればまだ花弁の方が重そうに見えるくらい。くしゃりと潰されて床の上に飛べずにいるのかと思った。花にくっついて床と下敷きになってバタバタやっているように見えるのは、これは動くというよりはもがくのだが、足を花にかっちりからめたまま透明な羽根で小石を打つように暴れている。……花に隠れて床の上で回っていつまでも起き上がれそうな様子は無い。花ごとコロコロ転がる。小さいんだ。周りの白花の床が海に見えて揺れ動きそうなくらい小さいんだ。でも、部屋の中で動く点はこの蜂一箇所だけ。目の中でこの蜂と花だけが周りから浮いたように大きくなる。……細かい様子までよく見えた。散って地に落ちた花にもはたして蜜はあるものだろうか?というのも、というのもな、この蜂、遠目には困って可愛らしく見えたが、柔かい黒い毛の胴体、キチン質の肢脚と虫の身体をそろえてグロテスク、しかも頭を花の中に突っ込んでいるようで……隠れて見えないが花の中では口吻のストローをズブリと伸ばしているのに違いない。あの蜜の色をした透明な管が複眼の下からにゅっと。おお、おお、黒い腹が左右に揺れるぞ、悦、悦、悦―――。何だい、困ってなんかいないぜ自分からしがみついていやがる、気持ちの悪い……。
花と床の間に挟まれても抱きついたままはみ出した柔かい腹がいっそう悦ばしそうにグネリグネリ。白い花と風吹く闇にまぎれて時々、黒い蜂は消えたり現れたりする。目を離したわけでもないのに、花がクルリとして白い点がチカリとすると蜂の姿は消えている。けれど首をひねり視線を外す段になって、一つの花が転がり出して小さな黒蜂が抱きついている。その花の落ちている場所がどうしても先刻とは別なものな気がする。そんなことが二度三度続いた。前に頭を上げずに見ていろと言うことらしい。とうとう白い花がばらばらに動いて蜂の姿はどこかへ消えてしまった。
 
 外の雨の音が大きくなった。床を見つめていた目を半分上げる。ぼんやり外気が膨らんでいる。嵐が吹き荒れていたのだ、大荒れの雨がずぶ濡れに……床の花片が動いていく。お、大いに嵐で散ったと見える……外の様子が見えてくる。やはり風で散ったのだろう、花に隠れて嵐があった。三日の雨三夜の雨、山を荒らした雨の傷は外でむらむら蠢いている。婆の驚いたことには、部屋の外に誰かがいる。雨ぎりぎりの外縁に立ち庭を見ているようだが、壁の後ろで姿は見えない。ただ、水の走る柱にかかる白い手首が見えている。ここに住んでいらした、やっぱり紅葉様だろう。

 

三日三晩の嵐がようやく過ぎ去ったのが東雲の頃、雨雲のせいで夜と同じこった何もあるもんじゃあない、紅葉様は目を覚ましてここ、ちょうどそこの縁に立っていた。三夜の雨は大いに吹き込みどこもかしこも濡れていた。雷鳴と伴に山から転げてきた折れ木が床を破って突き抜ける地面は沼のように軟らかく、皺が寄る。顔の横で雨水がチョロチョロ走るのが柱木の黒い染みで、寄りかかると手の指へ滓がたまる。微かな雨がしとしと隠すから地面も森も見えやしない、あちらのほう、屋敷の奥へ山のような黒雲が垂れてある。遠くで風が猛烈に吹いている。
 水の中かな。今朝は水の中まで雨が貫る、線になる、と目を煙らした。木々がなぶられ乱れるよ、風が巻くよ。その篠突く風雨の裏にどこか薄明かりがちらほら。厚い針のようで呼吸する斑模様のようで見飽きない。森の中は真っ暗。一人でここに座っていたんなら大口開けて吹き込んだ雨に髪がしっとりとして寂しかったろうね。
 森は藻のよう。バっくりあいた石の底、ほら魚の口が出た。風かと思ったんだ、おやと思ってそちらを見た―――すると、奥から巨大な魚と視線が合った、と思え。
 透明な、白っぽい、水の泡沫と言っては変だ、そうだね……そう……水が流れるときに、ちょっと離れて漂う冷気さ、空中に振った筆の擦れさ、おかしな雰囲気の魚だった。見上げるほど巨大なんだ。空では藍にも青にもよく染まりそうな色の無い巨体を……屋敷よりデカいんだ……横へゆっくり森の中を泳ぐ魚の頭は杉の梢の上へ出る、引きずられる太った腹は並んだ木々を端から端まで内に包んで闇中を進んでいく。不思議な光り方をする。
 小さい、小さい、たかが杉の梢……!そうだよ大人じゃあない、魚の子どもだ、幼い可愛らしい奴……まだ稚魚の丸い頭だった。魚の……ねえ分かるだろう、まだまだ小さな魚の、小川でも池でも一掬いに何匹も生け捕った奴を手鉢の中に入れてさ、縁に沿ってまあるく泳ぎ出すところを手の平でとん、と叩けばぱっと散る、あれと同じだよ、小さな形なんだ―――形だけはね。図体はそれでも森へ入った化け物魚だ。
 闇越しのすぐそこだ、目を合わせて風が吹いて水が散って、魚の透ける三重の瞳に、黒、金、赤の重なりを覗き込む……手元では柱を伝った水がチョロチョロ不安なふうに動くのだ。
 魚は銀色に光るんだ、本当だよ、無感情で伏し目がちな様子は静かな大坊っちゃん、するする森の中を動く―――時折ちらりと視線を残す―――大きな曲線ゆるやかな中に、あ、稲妻、とね。ピカリと光る。声は出さずに、じっと見ている、闇夜に銀幕が広がる、森と魚がゆっくりと回る、雨が降る、手に水が伝う、息が苦しい。
 光るのはしかし魚じゃない……、魚の中で縦横無尽の線が走る。森が地面がくり抜かれて光る。どうも魚のまわりで猛烈な風が吹いている。―――。地面の草がなよなよ動く。少し空は明るくなった。ああそうか、魚は雨を逃れてきたのだ。
 婆さんはまだ廊下から部屋越しに紅葉様の白い手首が柱の上にあるのを見ている。 
 
魚の身体の中に何でも透けて入っていくんだ、魚の向こうにあちら側の森が見えた。風がひどく揺れ動く。その、風に巻かれる森が魚の胴をすり抜ける、何の抵抗も無しさ、またヒレから腹から枝や葉が何でもなくするりと抜けてくる、その影、形、動揺、すべてが銀色なんだ、叩きつけられてピカリと光る、次の瞬間には外へ抜けてすぐ暗―い暗―い森に戻る。だから夏の夜の稲妻のようなんだ。一瞬、小さな葉の塊でも石の欠片でも入り込んだものが全てその形で闇夜を照らす。小雨の向こうに急わしいことだ、魚はゆっくりとこちらへ向かってきている、だんだん銀色の輪郭が目の中で大きくなってくる―――。動けやしないのだ。
 どうも不思議な光景だ。婆が左右を向くと廊下は静かに浮いたり沈んだりしている。まるで夢の中の雨。