有名な話だけれど、昔話では、地上に綺麗なもの珍しいものがあれば、魚はそんなものを鱗の中に全部吸い込んで、ずっと空の高みへ消し去ってしまうという。白いところへ行ったままそれっきり戻っては来ないという。その高みという場所で、互いの背やヒレをこすりつけながら、途方も無く大きな無数の魚達がいつまでもぐるぐる泳いでいるのだそうだ。
……初夏の夜の、どこの湖だったか、岸辺に大小無数の魚が集まり身体をすり合わせ、背ビレが月の下でなめらかな波になるという。真黒な浅い湖面に波が立ち、鋭い鱗やヒレがかつ現れかつ消え、暗水の只中にあって白い光が乱れ交うんだとか。雲の上の、巨大な天日の光を一つ戴いて宇宙無辺の闇を切る、それが大魚の背なんだろう。
 話に聞く、鱗の中身は金銀財宝、放っておけ、それよりもその、魚と魚がすれ違う度に背の光が交差する、白光の下の永遠が、それしか無い世界が、懐かしく思われて。
あの魚、森の庭の幼魚は……天の底をプカプカ雲の筋に乗って流れていたんだろうか、きっと独りぼっちでな、あるいはやんちゃして兄弟同朋の泳ぐ群れから遠ざかっていたのかもしれんな。さあ、その無垢をあの大嵐が吹き落とした。
 いいか想像せいよ。巨大な魚達が影を落として浮かぶ、広い広い白い雲の海が畑が広がっている。高いところだ、青い天空の光が強い、輝くばかりの上方下方、小魚がぷかりぷかり群れを離れていく、やんちゃっ子め、雲の棚に影がするする後を追います、追います、……日を浴びてヒレが揺れて、ちょんと消えてしまう、影一つだけ。
 雲の下の暗さも知らないでのどかに、ぷかりぷかり、突如腹の下の雲が乱れて開いた風の螺旋が現れれば魚は声も無く引きずり込まれるはずだ、地面に落ちるまでよほど雷様にも風にもいじめられたかな、地上の川や滝でだって雨後では馴れた魚が溺れ死ぬ……群れを離れた小魚なんて、暗い地面へ叩きつけられて荒れ乱れる森を初めてさまようっきり、可哀想なものだな。
 ただでさえ火の無い暗いところを嫌うんだ。暗い水に落ちて湿ればもう飛べまいに、弱かろう脆かろう雨と泥に塗れれば飛天神通力は失せるものだ、そういう……話だもの。魚はどのみち生きてはいられまい。後で死んでしまったよ。
 迷い込んでな、泥沼の中で可哀想に、けれど映り込む景色はぞっとする地上の闇ばかり、そこを紅葉様が見ていたんだ。動くだけで森の触手が身体の奥までぬるりと入る地獄に現れた仏、畜生でも銀光痛々しくそっと這い寄った。そのはずだ。
 ところがまた雨が激しく降り始めたんだ。風も……風が雨滴を運んで腕や鼻を打ち過ぎていった。
 魚はすぐそこまで来て静止していた。見るにも怖いはずだ、巨大な魚の顔が正面からこちらを向いていて背後は暗い森、強まるまた暗い雨だもの。
 魚顔の怖さと云うものを。小さな剽軽者へ顔を近付けてみなよ、バッタでも蜂でもいい、とぼけた表情が可愛くて小さな翅をつまんでニラメっこ―――指先で腹が丸く動く肢がうごめく、蛙の白腹や紫蘇の葉でもグジュグジュと噛み潰す大顎が三段かつかつかつと空をちぎる。鼻先から放り出す!小物の大きな顔は怖くなって悪夢に出る。
 真円三つの瞳が雨に打たれても動かない。暗い水の底から魚の口が細く大きく動いて息をする?蓮や藻の陰からこちらを見つめる淡水魚のあの不愉快な!無気味な!……。低く雲が押っ被さって背中が森を背負って伸びていく、魚の鼻面はつるりとした無表情。ぶうと息を吐く、いや吐かない。
猛烈な雨さ、過ぎ去る嵐の断末魔だ、けれど短い雨だった。……長くはかからない。波濤のような水と風はもとより、その、地鳴りがね、森を振るわす響きがね、まるで踏みつける巨人の足のように迫ってきて、魚は泳ぐ。
 怖い影を見つけて池の底へもぐっていく。けれど杭の藻をつつく池の広さも無い、濡れた森の下草とのしかかる暗闇に挟まれ包まれては行方が、上にも下にも、右も左も、ぐるりと泳ぐ―――かつ逃げるべきものは天地の水なんだ。知らん顔で魚を包む水が怖いとさ。そのときには不安げに目が揺れていたと言うものね。雨が襲った。
 巨大な魚は身を翻えし横手へ泳いでそこの森から今来た方に古屋敷の軒がある裏の方へス―――っと。その後をすぐ吠え滾る雨と風の音、地ではじけ逆立つ雨が続きます。轟然だよ。
 魚の身体を抜ける銀色の、光が消える途端には低い葉でも高い葉でも大粒で撃たれて飛沫を散らして、それから、地面が上擦ったかの水煙。怯える。震わす。耳を聾せんばかりの雨音で、手首へも柱から水の蛇がちょろりと躍って、すぐにこの部屋の隅々が、湿気の、闇の、その冷たいところ。
 雨を吸い膨らむ暗い森の線が激しい音でぼやけていく。手元の柱と遠くの闇がどっぷり墨をかぶり境目の無くなるそのもう少し先、寂しくなるところで銀の鱗が怪光を放つ。たまに近付き、遠ざかり、―――どうやら大きく泳回しているようだった。
 そうさ瀕死の傷でもがくんだ、上顎に針をかけた血まみれの魚が引きずられるのに抗うのさ、―――胴半ばまで串刺しにされた雀が小石を叩いて転げまわるとか首の千切れかけた鼠の長い尻尾だけがいつまでも暴れるとか、見えないところで光が散るだけ恐ろしい。水煙が血の赤に見える。死ぬぞすぐ死ぬぞ……。見なけりゃいいんだけど、でも可哀想で痛々しくってね。
―――魚は水煙の中を屋敷の裏へ泳いでいった。泳ぐその速さが並大抵ではなしあの巨体ではあり、暗いところに銀の光が縦横無尽……乱れ交う。湧き上がった無数の蟲が銀色の雲になり覆うように地面の凹凸が森と言わず屋敷跡と言わず這い回る、木に飛んで石に移り庭を染めて―――ぐわんぐわん!嵐で折れていた細い枝が樹皮一枚でフラフラ揺れると、宙に銀の光が走ってすぐまた下へ。周りは大雨、銀色に光る、あんまり目まぐるしくて……それに暗かった。
婆は目の前で暴れる雨の轟きに呑まれていた。
 婆を担いでいた男が時も無く唐突に走り出した。まだ見果てもしないのに、土足の脚が廊下の暗闇へ飛ぶように動いた。婆は背中でガクガクと揺られる。―――腰が伸びて首に巻いていた手が離れ、婆が一瞬ぶらんと上半身を投げ出してしまう。……腰は付いたまま残ったから落ちはしないが、頭は床すれすれを掠めて見た。垂れた反動でまた次の瞬間には男の背にくっついていた。落ちて上がった、ただそれだけの息も鼓動も一回きりの間のことで、ところが左手に何か硬い大きなものを握っている。再び男の首に巻き付けた手の中に、肉を抉るような鋭い平たいものがある。落ちた瞬間……?頭の中でゴンと云った、頭蓋をぶつけたのだろうか、衝撃で上下の顎が当たったのだろうか、それはそれは大きな音が確かに聞こえたあの瞬間、婆も世界もぶつりと切れたようでその前後のつながりが不明瞭―――断絶して目を見開いてこの、手の中の……むむ、鱗だ?

 

 暗闇が突如明るくなった。それは明るくなったなんてもんじゃない、雨も夜も屋敷の隈も跡形も無い、重苦しく眩しい真夏の森の中を走って行く。目の前の葉や幹から光がこぼれ目が痛い。どこからか雀のじゃれ合う声がチュンチュンチュン、ピピピピ……。ぱちくりぱちくり。

 轟音一発砂―――砂―――砂―――泥―――あのお屋敷は背後でふっ飛んだ。それ土砂が湧く。後ろの森の向こうだ、噴き上がったものが宙へ散って赤い霧のようだ……塵のような……ふと夕日が落ちたような。ひどく恐ろしく寂しく、山ごと暗くなる。地が傾いたかと思うと、石も柱もミシミシと打ち上がってすごい音で割れる。走りながら振り返るとその様がよく見える。木の両脇を黒い流れが駆け抜けて……まだ、まだ終わらない。ミシリミシリ聞こえるとバリバリ響くのは森の中の木が幾らでも薙ぎ倒されていく音だろう。山も地滑りを起こす。巨石も森を流れる。百年二百年も地の底で堪えてきた巨石が膝で蹴られた鞠のように跳ねて飛んだところをまた下から突かれて空を遠くに消えていく……どうしたことだ。真黒な土と木片と木の葉と虫の死骸と、そんなもので世界は詰まってしまった。乾いてはいても、流れと呼びたい、黒い土はいつまでもぶ厚いまま流動して止まないんだ。
 婆も男も土石に追いつかれたり追い抜かれたりしたんだろう。拾ったばかりの大きな鱗を失くしてしまった。樹幹からぴょこりと小さな緑色の双葉が飛び出しているのを見つけて、すぐに土埃が被って茶色く汚れていって、のんきなこと、太い幹を見上げると頭のずっと上まで黒い濁流は伸び上っていて、それが細い枝ならぱりぱりにへし折って運び去ってしまうのだ。

 しばらくは柔かく重たいものを押し流す土泥と硬いところに石榴をつくる小石と木片の嵐が続いた。星と星が衝突ったような大音上弩級の破砕も、ひらりひらり木葉と塵が地面の上で舞って静かに回れば唐突な静けさ。しんと終わってしまう。後には埃が風で右往左往、向きを揃えて森の間を抜けていくばかり。元来の色を取り戻した陽も次第に差し込んでくる。塵と薄光の中に残った木は森を形作って見慣れた景色さ。そうだ、だってここはまだ夏の静かな昼過ぎだもの。
 どこをどう通ったか、開けた場所に出た。既にまた快晴である。平らな川底の水溜まりに青空と遠くの白雲が映っている。夏の地べたがだんだんと暑くなるにつれ谷の色は白く輝く、ぼうっとしたね、さあっと降り余した森の雨滴はさっきからキラキラ眩しいばかり―――間から鳴き出す蝉の声。
 谷、崖、森を抜けて歩く道はゆるやかな上り坂。ここからなら背後の樹海がどうなったかも分かるだろう、さて今出てきた腐れた森はどちら……?とまずは高いところから様子を伺うつもり。
 
 山道の一番天辺に枝がよく繁る大木があった。今は何匹も蝉がついてとてもにぎやかしかった。のぼっていくとその下に、蛙の形をした大きな石が一つあった。うずくまる蛙そのままの形で年中口を閉じかしこまり前を向いたまま、何とも愛らしい格好だ。人が―――この婆が、鼻先へ腰かけて両眼を掌で撫でてやると宙へ下げた足が地面より身体半分も浮いてぶらつくような巨大な石蛙なんだ。蛙のうっとおしそうなへの字の表情。ひんやりとしていた。
 石の蛙が睨む先に裏山の膨らみは切れて、鬱蒼と茂る森が広がっている。高く陽を浴びる梢が柔かい麦の新芽の畑のようにどこまでもどこまでも、明るく照り輝き緑にも金色とも。けれど足元をさらう一陣の山風が轟と鳴るなり、平和の畑は割れてその下から汁まみれ、暗くて青い大樹の幹枝がざわざわ揺れた。嘔吐くような強い匂いが蛙の鼻先までぷんと立ち上る。
 気味の悪いものが口を開ける。ぬらぬらと青臭い匂いで、毛が逆立つようだった。普段は誰も足を踏み入れない人不入森だからな、そうさどこのどんな森だってこの森には及ぶまい。白神の原生林も屋久島の大杉も、この荘厳には及ぶまい。深甚たる魔所だよ、かつ恐れかつ敬う海のような森だった……はずが……神気を放つ星霜大森林の海原に一ヶ所、真四角なハゲができていた。
蛙の上から眺めて黒地に白い布を当てたようだった。本殿を前後に挟む庭の白砂、伸びた廊下や離れ座敷の材木までも白いのか。池は無い、塀はある、立派なお屋敷が森の一画を弾き飛ばして威風堂々と一揃い。
あれが噂の紅葉様の大屋敷。
今、寝殿の前に5つの人影があった。遠くから白いところの小さな点になっていて虫のよう。ちょっと広いところで落ち着かないのか、5匹の小虫達は腰を低くして顔を見合わせては肘でつつき合ってそわそわ。突然一斉に同じ方へおじぎした。寝殿の方―――隠れて見えないがおそらく階段がある―――に誰かいるらしい。もちろん、言うまでも無い、もうここに住んで居らしたのだ。ついで何かを話し合っているようだけれど、その度に五人の頭がてんでに上下する。上がるときには肩と首をひねって話を伺いますの気合い、下がるときには腰から深くかがんで平身低頭の構え。あの台風で里村にも大いに被害が出たのだろう。年が経っても直らないもんだから、噂の紅葉様に助けを求めに来たんだろう。
見ている間に、するするとそのまま全員が屋敷の中へ入ってしまった。
外から屋敷に入る道は一つ。出る道も同じ一つ。正面から細い道が木々の間をにょろにょろ森の中へ消えていた。
あの道まで下りようか。ところが蛙の山からは屋敷を一回りしなくちゃいけない。それならお屋敷の裏庭が見えている、近いそちらに下りようと思う。
降りそそぐ日光はいよいよ暖かく、風はときおり山から吹き下りていく。尻で飛びおりたとき指で眼を引っ掻いても踵が喉を蹴っても知らん顔。つれない蛙だ。そんなに日差しが気持ちいいか。
目が眩む目が眩む。底が抜けていく。ピカピカしていた鱗は失くなってしまった。特別に綺麗な青だった。あの青さ。石につく小さな丸い頭の川の魚のようだった。いるだろう、大きな目と平たいお腹で貼り付いて流れの水で黒い背中の青い模様がゆらゆら揺れるヌメヌメ指先くらいのが。扇みたいなヒレの中まで黒くて青い筋の光が走るヤツ。葦の緑と混じる水が割れるような青がもっと鮮やかな素晴らしい……だったのに……。大きに泥で汚れたろうな。土の下に埋もれてしまった。埋もれた鱗から大屋敷が飛び出してあの濁流を産み出した。鱗は失くしたわけだよそれだもの……あれだけ綺麗なお屋敷を天の魚が飲んでいたんだ。それならそうか仕方無い。
婆が歩く足元から草いきれが立ちのぼる。け立てて進むのんびりとした砂の小径は屋敷の横の裏へ下りる。
いつの間にやら婆は一人切りなんだ、そうして歩いていく。
下りると森へ呑まれる。黒い、青い、水が滴り、枝が打ち合うのか、絶えず高い所で音がする森を通り抜けた。背筋まで冷たくなったころにようやく、あっけなく、光が差しこむ。
この辺りが濁流が木々を押し倒した場所だろう、地に何だか分からないふかふかした層ができていて、足の指の間へかぶさるくらいに沈み込む。ふかふかと柔かい……高くなった道を行くんだ、進んだ後に足跡が残るんだね。
 二歩三歩、大樹が道を塞いでいる。雪崩はここで積もったのだ、大樹の先に大樹が重なり壁になって行く手を妨ぐ。その表側がずたずたに荒く破れている。土流の破片の威力は目にも明らか。抉られ挘りとられた白い身肉が毛羽立つ、骨まで見えそう、そして宙へさらされた傷へ塵が塵を呼び大量にかぶって膨れ上がっていた。むしろ凹んだはずの箇所がこちらへ迫り出してくる、とそんなふうに見える……表面が、トロリと崩れる。
 血管を傷付けられ流れ出した樹液が漏れ出していた……我が身を惜しんで悲しい悲しいと涙で泣くようだ。流れる液が周りの塵をくるりと浮かして貼りつけて回る、ドロドロした丸い塊になって、―――決して真っ直ぐには進まん―――凸凹を超えながら大きくなって樹の幹をすべり落ちてくる。一つ幹に二つ三つとろとろ進んで追って合わさって……林立の隣も隣も一つ二つ三つ。そこら中の木の白い粉に覆われる縦の面から拳より大きい粘液があちらにこちらにクネクネと這って姿を出す。ああ垂れてくる。唾をのんで……ちょっと怖くなって道の先へ駆け出す。
森の奥へ、深く積もった塵か木の屑か、相変わらず高くなり低くなり前へ寄りかかると踏ん張った足が沈むはっきりしないところを歩いていく。両側に木は続く。一面が塵埃。まあ仔細はない、抉られて木々の形は変わっても森と屋敷の位置関係はさっき確認して分かる……時折遠くでガラガラ何か崩れる音はしたけれど静かな、そして落ち込んだような森の中。道の先に覚えのない廊下がある。
地面の続きが盛り上がって乾いたような長い廊下だ……屋根付きの廊は橋のように反って雅に乾いて白く行く手を妨いでいた。
暖かな光が満ちていた。廊に押され盛り上がる陽だまりにも平和そうにふわふわした毛玉のような苔が安らいでいる。森の中では毒気ありげな巨大粘菌だったくせに、恥知らずめ、見よお前以外の森の子達は不届きな角材造りの闖入者を太古のうねり以て捻じ切らんとしているぞ!―――森の大事の木々を何本もへし折って、この屋敷の廊は異物邪魔者。
人より大きな瘤を幾つもこさえた巨老樹が年に似合わぬ大力で、神宮の社殿のような紅い漆塗りの細やかな組木で彩をつけた欄干と衝突かっている。……いや、押しのけられている。青々と若葉が繁る巨体が竹串のような飾り物のせいで歪みつんのめっている横では、同格の古強者が、こちらは見事な根を日光にさらして完全に横倒しに。……開いた空から漏れ込む光の中では埃が舞うのだ。
一体何が……?
欄干の飾りの薄い板に樹皮のかたまりが乗っていた。倒れている古木から持っていかれたのか。紅葉様がつまんで除けると傷一つ無い欄干は燦燦と輝いた。地面の死に木にくっきり飾りの影が浮かんだ。やっぱり木の方が負けたんだ。
中心から屋敷は伸びてきたみたい―――とても無理矢理に。
ゆっくりほこりが漂う廊下は白砂利の透けるように光る庭に開いて明るい。くしゃみをしそう。それにとても静か。でもそのまま廊下を進んでいくのは薄ら寒い。から、とん、とん、とんの拍子で上るとみえてすぐ中庭へ飛び下りて。
庭の大きな縁に沿って、ぐるりと四角く寝殿の正面へ向かっていく。
巨大な建物―――巨大な庭、塀。建物の陰で厚く積もる苔を見つけた。苔が―――、屋根から垂れる水を吸って膨らんでいるらしい。視点の置き場所ができて少し嬉しくなる。白庭に黒一点、いややっぱりお前は頑張っているよ。
人の声を聞く。一つの廊がまた別の廊へ合わさり第三の廊へつながる奥から漏れ聞こえてきた。何だろうなあ……離れた方にあるが果たして……?婆は廊へまた上り庭から離れた。その長い黒髪を背に流しつつ、柱が三つ重なる影でふと薄暗くなる角を右に折れまたのんびりと……再び影がぱっと見えて建物の裏へ消えてしまった。最後に髪の先が残って揺れた。

水底金波銀波2 2. 森中から巨大魚

紅葉様だ。道の中を白い筋が一直線に走るのが見える。そう……婆の目にはありありと映る。紅葉様だ。森の闇がスパリと切れる。
 水に跳ねた音が散って眼前に光った。岩と岩を通り過ぎて覗き込んだ光がいつまでも焼き付くように、チリチリと―――熱気を浴びる。
 道から切れて落ちて婆の視界へ光が入る。濁流が草を飛ばしガラスへ飛沫を散らしたような晴れ空へ。闇の道を走りながら。
どうやら瞼の裏に夢見るらしい。紅葉様が初めて姿を見せた三年前の夢ということはずっと前から、すぐ知れた。

 

―――目蓋の裏に見える世界は盛夏の光の渦。所は木深い真夏の山腹、白崖には緑や黒が夏模様を綾なす渓流の、小さな木橋。紅葉様が通る橋……。
木影の下にあり、立ちのぼる冷涼な水気で水滴がつきもし、橋は黒々としている。橋一枚下には目もくらみそうな高く伸びる崖の白い壁。上には森の端の葉先も眩しく陽光に輝くから、橋はいっそう黒くて。橋板がくるりと回りそうなくらいの遥か下で谷川は糸のように細かった。のぼってきた涼気が暑気を払う。白砂利が透ける山川を所々の大岩が塞き止め、泡が清くはじけるとそこらの木にまで滴をつける、枝の葉がしっとり重くなる。
 水苔がからむ橋には右からも左へも厚い葉が被さる森の道が続いていた。高くから漏れこむ光が石や落ち葉を飛び飛びに……、みるみる暗い細道へ。この谷まで方百里、森雲押し寄せる中で唯一の切れ目なのだ。木影に包まれさやさやと、今その橋の上で一番濃いところに包まれてしゃがみこむのが一人。いたぞ、それが折しも森を抜けていく紅葉様の姿で。光って見える、ぼんやりと、紅葉様……、小作りな背中、白い手に細い杖、背負う四角い藤籠、頭に大きい市女笠、名の濃さにも似合わない真白な装束は、籠と笠が重たそうに見える。闇森に濃い陰ができていて、婆はこっそり見つめていたのさ。三年前の山の中の蝉の声を谷川の水が一息にぬぐい去って、水削る震えが轟々と橋も森も分かたず。…………。
 その小橋は割った大木を横にしただけで幅なら多少ともあるが、内は盛り上がって外は下がり、その丸みで雨水を排す造り。紅葉様も、しゃがみこむのは不安定じゃないか。杖を使って背中の籠と端の間に釣り合いを持たせて小柄な……、ずっと止まっていた。何が見えるのか。陽の光で受けた広葉樹の葉が風に吹かれててんでばらばら裏表に―――風の声も枝打つ音も全部水の響きに飲まれていく。夢だものいつまでもそのまま。景色も響きも轟轟と流れた。大きな山の影を背景に、橋の上の紅葉様はふい立ち上がり歩き始める。
 暗闇で脚の下の大男が走って行くのが大きく衝撃れた。
 杖の音がコツコツ鳴る。それを待っていたかのように周りの山で無数の葉の色が真赤に燃えて、谷も橋も染め上げる。焼けつく夕日の長い影法師。白い姿は朦朧と縮み上がる山影へ―――森の奥へ消えていった。それから誰も行方を知らない。
「あれは蝦夷の娘が東から来たらしい」村口の賽の石で男が布端をいじりつつ。
「南の海の向こうの鬼だから……」隠れんぼの子供が隣の幼子にしゃがみこんで。
「都から追われた大層な貴種の―――」寺の脇で汚い修験者がダミ声を。足元のフキの葉から虫が這う。
 ふらりと旅荷姿の女一人、村を抜け山を越してきたあと確かに紅葉様はここへいらしたのだ。

 

 暗がりで婆は泣くらしい。婆は足元へ濡れてきた水へ触れるのが怖いから、顔をくしゃくしゃにして男に負ぶさっている。両足が男の脇下に突き出して前に揺れて妙に生白い。婆は水が来る前から男にしがみついている。婆の髪はまたやけに長い。山を一巻きも二巻きもできそうな黒髪が、これは見事なものだ、スカスカの婆の顔から離れるなり豊かに宙に満ちうねり背後の緑の闇へ流れて消えていっている。常に引っ張られているようなものだった。森にも絡もう、草原にも延びよう、闇に失せては見えないが、ひょっと本当に山々をのたっているのかもしれない。闇が全て婆の髪となってもぞりと動く。地に触れぴちゃりぴちゃりの葉の天蓋は暗く低く低く溝に落ちこんでつながり左右の森はいよいよ茂り……道の先はどこへ続くのか、石は鳴り続ける、いつまでも森の奥には溜まった水の気配がする。
 水気森に満ち道は次第に木々と土と天のふくらみの中へ潰されていくようだった。男は歩を緩めることなく、飛ぶようにズンズンと進んだ。道の奥に聳え立つ真暗闇があるのは、きっとあそこまでは辿り着けないのだろう、いくら走っても走ってもあの暗闇までは行き着けまい、それほど小さい、それほど巨大い。とうとう天を閉ざし左右順応に狭まる道を為してきた木々が白い顔で振り返りここまでだ、枝をこちらへ剣術腰で突き出した道の終わりの一点で、男の足が大きな石を踏み付けた。
 閉じた袋の縫い目で包みは薄く解けるものか、森の天頂はそこの葉と枝の頭上からさらに雲の峰一つ乗せたほど厚く生い繁っているはずなのに、間を透いて青い月光がこの辺りを照らしている。古い屋敷だ。年代物。思うに、大昔に山から転がり落ちてきてここへ座ったのだね、大方もう無い都の名残りだろう。大昔の柱も屋根も腐り、床は抜け真夏の干魃中でも何かの拍子でポタリと一日一滴は垂れそうな……ボロボロの廃り跡。この小屋の大きさは、さあ?戸口の他はどこからが森か、埋もれて同化して、奥までこの形が続きそうでもあり皮一枚被っただけを裂いたようでもあり、全く。緑と土の腐った匂いの……さっぱり分からんよ。
 さて、ここへ入る。現代なら何だ、何と言うんだ……街灯に照らされた霊園の墓並だ。怖いところで何か立ち消えた嫌さの残るあの感じ、しかも夜だよ、月が葉を透く青い闇だか明かりだか、虫も鳴かないこの屋敷にも入り口の前に大きな、それでいて平らに背が無くて幅が広い四角い石一つ倒れているのが、端はくっきり内はぼやぼや、それが寂しい道の終わりの礎石だった。はっと見上げて青い黒い森の中、静けさに潰れて木造物が腹まで裂ける口を開ける。固まって閉じない。その暗がりの中に、大男は土足で。ここも道だ。
 


 上がり口こそ明るけれ、面で切ってすぐみしみし音のする奥へ三角廊下。言うまでもあるまい、どっぷりと。内から遠ざかる口を返り見た婆の目には、影だけが浮いて、廂を呑む草木宙折れ廊下古落葉新芽、海底のペンペン草が揺れ風の影が巻き大量の蔓が絡まる世界に色は無いよ。尖るのも丸いのも黒一色に……青もにじむのかな、不思議なかたまり。奥の暗いところで巻きつく蔓から青い花だけが何だか光っていた。
 山へぶち抜いた古屋敷の廊下が終わらない。後ろで濃い闇がうわんうわん吸われるように閉じていく。廊下は暗く、厚い布団がくるまった重苦しさ。男が恐ろしい速さでその中を進んでいく。足も動いている気配が無いのに……あくびが出るの……何も見えない。ふわりと粒子が漂う、息の均質な暗闇がときおりぐっと詰まりうんと思う間に離れるのは、曲がり角を避けるのだ。間隔がだんだんとせばまり、曲がる度曲がる度角を七つ八つと数えていって―――とうとう気が付くと長い長い一本道、駆けて行ってようやく分かるんだ、音もせず、揺れず、見えず、底の底という山の下。
 道が終わらない。ミシッミシッと板の軋みは一緒に付いてくる。自分の身体がバラバラになったよう。おや。離れていった。足はずっと後ろの通り過ぎたよく分からないところをしきりとまさぐっている気がする。……。
 小さな明かりが足元で揺れていた。
 婆は庭に面した座敷の敷居を踏んでいた。見知らぬ四角い小さな庭に植物が茂る。暗い廊下からわずかに淡く浮いて柱や敷居が輪郭を持ち、青い外世界へ抜けている。廊下の……通り過がりの部屋なのだ。座敷の向こうの木々の青臭さで婆は大男の背に手を回す。


 
あくまで森の中なんだろう、数歩もかけず渡れるような小さな庭はすぐそのまま大木となって上へ消える。
部屋の奥の壁がもう外なのだ、そうして縁から庭へ落ちる。部屋はひびの入った土壁で、左の方に小さな文机が置かれていた。古い時代の、ほら、前に正坐して手紙書物に筆を乗せるための小さな平たい机のことだ、畳と障子の格子の影が似合いそうな硯石の黒さのそれが、今は染みのように剥き出しの白い床の上に一つだけあって、上に竹で編んだ目の粗い鳥籠と花とを載せている、狭い机上だけれど花は直に机に伏せられていて大籠の中は空っぽ。大きな頭から長い蔓を伸ばして切られたたった一輪の花が目の覚めそうなくらいに青い、青い―――!その机上の籠の、編まれた竹と竹が交わる継ぎ目からキリキリキリキリ―――か、ヒィヒィヒィヒィ―――か、虫の鳴くような音が聞こえていた。腹の底が冷たくなるようだった。竹と竹がこすれて鳴る音ではない、それよりもっと遠いところからすぼまってきた同心の円があそこへ縮まり詰まったときバチンとはじけて音が鳴るようだった。机上の真っ青な花の茎と葉の間に知らない色がにじんでいるのを見て、少しだけまた周りが暗くなった。
 床の上をつるりと動くものがあった。白い……素床の上に……床一面は白い花。いや床一面とは言い過ぎた、それでは何だか白いラフレシアでもばくりと口を開けて床に生えているようでおかしい。何も無い部屋の、床の上に小さな花が散り敷かれていると言うんだ。ぽつん、ぽつんとね。庭から吹き込んで散らかりでもしたのか、とても小さな花が塵のように落ちている。茎や葉や実は無く、白い花弁だけに見える。白ユリや白菊なんて大きくて恐ろしいものじゃなく、桜の花弁一枚をもっと細かくした程の大きさしかない。背の高い草の先にビッシリ咲き誇ったり、低い高山植物がそっと咲かせたりするような手合で、やはり風に吹かれてザ―――ッと散っていく様子が目に浮かぶよう。無数に散らかっているのが波のようにチカチカして―――中央からそろったり列を為したり回ったり―――目の錯覚で視線が定まらない。視界の外は暗いんだか明るいんだか。布を横から押すような風が吹いてくる。目の焦点が開かれたり絞られたり、花はひたりと床の上で、今更そんな風では動かないんだ。その風も止んで、静かなはずなのに…………床の花弁が動いて見えた。
いや確かに一箇所動いて見えるぞ、蜂、蜂、蜂が一匹もがいているのだ。真ん中で小さな蜂が六つ足で花弁にしがみつき短い黒毛の腹をブンブン振っている……その小さな身体に比べればまだ花弁の方が重そうに見えるくらい。くしゃりと潰されて床の上に飛べずにいるのかと思った。花にくっついて床と下敷きになってバタバタやっているように見えるのは、これは動くというよりはもがくのだが、足を花にかっちりからめたまま透明な羽根で小石を打つように暴れている。……花に隠れて床の上で回っていつまでも起き上がれそうな様子は無い。花ごとコロコロ転がる。小さいんだ。周りの白花の床が海に見えて揺れ動きそうなくらい小さいんだ。でも、部屋の中で動く点はこの蜂一箇所だけ。目の中でこの蜂と花だけが周りから浮いたように大きくなる。……細かい様子までよく見えた。散って地に落ちた花にもはたして蜜はあるものだろうか?というのも、というのもな、この蜂、遠目には困って可愛らしく見えたが、柔かい黒い毛の胴体、キチン質の肢脚と虫の身体をそろえてグロテスク、しかも頭を花の中に突っ込んでいるようで……隠れて見えないが花の中では口吻のストローをズブリと伸ばしているのに違いない。あの蜜の色をした透明な管が複眼の下からにゅっと。おお、おお、黒い腹が左右に揺れるぞ、悦、悦、悦―――。何だい、困ってなんかいないぜ自分からしがみついていやがる、気持ちの悪い……。
花と床の間に挟まれても抱きついたままはみ出した柔かい腹がいっそう悦ばしそうにグネリグネリ。白い花と風吹く闇にまぎれて時々、黒い蜂は消えたり現れたりする。目を離したわけでもないのに、花がクルリとして白い点がチカリとすると蜂の姿は消えている。けれど首をひねり視線を外す段になって、一つの花が転がり出して小さな黒蜂が抱きついている。その花の落ちている場所がどうしても先刻とは別なものな気がする。そんなことが二度三度続いた。前に頭を上げずに見ていろと言うことらしい。とうとう白い花がばらばらに動いて蜂の姿はどこかへ消えてしまった。
 
 外の雨の音が大きくなった。床を見つめていた目を半分上げる。ぼんやり外気が膨らんでいる。嵐が吹き荒れていたのだ、大荒れの雨がずぶ濡れに……床の花片が動いていく。お、大いに嵐で散ったと見える……外の様子が見えてくる。やはり風で散ったのだろう、花に隠れて嵐があった。三日の雨三夜の雨、山を荒らした雨の傷は外でむらむら蠢いている。婆の驚いたことには、部屋の外に誰かがいる。雨ぎりぎりの外縁に立ち庭を見ているようだが、壁の後ろで姿は見えない。ただ、水の走る柱にかかる白い手首が見えている。ここに住んでいらした、やっぱり紅葉様だろう。

 

三日三晩の嵐がようやく過ぎ去ったのが東雲の頃、雨雲のせいで夜と同じこった何もあるもんじゃあない、紅葉様は目を覚ましてここ、ちょうどそこの縁に立っていた。三夜の雨は大いに吹き込みどこもかしこも濡れていた。雷鳴と伴に山から転げてきた折れ木が床を破って突き抜ける地面は沼のように軟らかく、皺が寄る。顔の横で雨水がチョロチョロ走るのが柱木の黒い染みで、寄りかかると手の指へ滓がたまる。微かな雨がしとしと隠すから地面も森も見えやしない、あちらのほう、屋敷の奥へ山のような黒雲が垂れてある。遠くで風が猛烈に吹いている。
 水の中かな。今朝は水の中まで雨が貫る、線になる、と目を煙らした。木々がなぶられ乱れるよ、風が巻くよ。その篠突く風雨の裏にどこか薄明かりがちらほら。厚い針のようで呼吸する斑模様のようで見飽きない。森の中は真っ暗。一人でここに座っていたんなら大口開けて吹き込んだ雨に髪がしっとりとして寂しかったろうね。
 森は藻のよう。バっくりあいた石の底、ほら魚の口が出た。風かと思ったんだ、おやと思ってそちらを見た―――すると、奥から巨大な魚と視線が合った、と思え。
 透明な、白っぽい、水の泡沫と言っては変だ、そうだね……そう……水が流れるときに、ちょっと離れて漂う冷気さ、空中に振った筆の擦れさ、おかしな雰囲気の魚だった。見上げるほど巨大なんだ。空では藍にも青にもよく染まりそうな色の無い巨体を……屋敷よりデカいんだ……横へゆっくり森の中を泳ぐ魚の頭は杉の梢の上へ出る、引きずられる太った腹は並んだ木々を端から端まで内に包んで闇中を進んでいく。不思議な光り方をする。
 小さい、小さい、たかが杉の梢……!そうだよ大人じゃあない、魚の子どもだ、幼い可愛らしい奴……まだ稚魚の丸い頭だった。魚の……ねえ分かるだろう、まだまだ小さな魚の、小川でも池でも一掬いに何匹も生け捕った奴を手鉢の中に入れてさ、縁に沿ってまあるく泳ぎ出すところを手の平でとん、と叩けばぱっと散る、あれと同じだよ、小さな形なんだ―――形だけはね。図体はそれでも森へ入った化け物魚だ。
 闇越しのすぐそこだ、目を合わせて風が吹いて水が散って、魚の透ける三重の瞳に、黒、金、赤の重なりを覗き込む……手元では柱を伝った水がチョロチョロ不安なふうに動くのだ。
 魚は銀色に光るんだ、本当だよ、無感情で伏し目がちな様子は静かな大坊っちゃん、するする森の中を動く―――時折ちらりと視線を残す―――大きな曲線ゆるやかな中に、あ、稲妻、とね。ピカリと光る。声は出さずに、じっと見ている、闇夜に銀幕が広がる、森と魚がゆっくりと回る、雨が降る、手に水が伝う、息が苦しい。
 光るのはしかし魚じゃない……、魚の中で縦横無尽の線が走る。森が地面がくり抜かれて光る。どうも魚のまわりで猛烈な風が吹いている。―――。地面の草がなよなよ動く。少し空は明るくなった。ああそうか、魚は雨を逃れてきたのだ。
 婆さんはまだ廊下から部屋越しに紅葉様の白い手首が柱の上にあるのを見ている。 
 
魚の身体の中に何でも透けて入っていくんだ、魚の向こうにあちら側の森が見えた。風がひどく揺れ動く。その、風に巻かれる森が魚の胴をすり抜ける、何の抵抗も無しさ、またヒレから腹から枝や葉が何でもなくするりと抜けてくる、その影、形、動揺、すべてが銀色なんだ、叩きつけられてピカリと光る、次の瞬間には外へ抜けてすぐ暗―い暗―い森に戻る。だから夏の夜の稲妻のようなんだ。一瞬、小さな葉の塊でも石の欠片でも入り込んだものが全てその形で闇夜を照らす。小雨の向こうに急わしいことだ、魚はゆっくりとこちらへ向かってきている、だんだん銀色の輪郭が目の中で大きくなってくる―――。動けやしないのだ。
 どうも不思議な光景だ。婆が左右を向くと廊下は静かに浮いたり沈んだりしている。まるで夢の中の雨。

 

水底金波銀波2 1.冒頭

水底金波銀波

                               小林千三

 

 何でも、暗い上り道を歩いていた。匂いの無い風が吹く、遠い夜空の辺がどこか薄青く見える、一人きりの夜道だった。目と鼻の近くにははっきり闇がある。先刻通ってきた山の小道から落ちる脇にあった小さなお堂か社か、木製の古びた屋根にも苔がのっていて、それが、月も無い闇夜に不思議と青く光っていたのを思い出した。
 そう、横に松があった。見上げて、水平に開いた枝の先から針葉を通して見える遠い山脈の、空を一つなぎに切り取って戻ってくる稜線にも、やっぱり厚い青色が光っていた。境界のギザギザしたところが青くにじむように見えていた。どこにあるのか知らないけれど、この山道は高いところにある。だから道のその上を通って行くときは夜空の一番暗いところしか見えない。闇の中で足元の、だいぶ下から水の音がのぼってくる。さっきから何も見えないからその小さい音がものすごい響きになって聞こえる。既に下は水の中だ。こんなに暗いから水の底へ沈むときも、その後も、それきり何でも静かになる。色々なものを内にのみ込んだ水面がゆっくりゆっくりのぼってくる。
 ちゃぷちゃぷり、水に足音を追われて上へ上へ。振り返るとどこに水の線があるのか分からない。混然とした闇の中のどこかで山道の傾きが水平な液体の中へ落ちているだろう。水に入っても道は全く形を変えずに続くに違いない。きっとあの辺りだと目を凝らすと、ちょうどあの小さな青光がゆらゆらとなってふっと消えた。ああ、あそこまで水が来た、屋根の苔が水に沈んだのだと思った。闇の中の水かさがゆっくり増してくる。見つめている内にも水音は止まずに上がってきた。坂道をのぼれば上に洞があるのを知っているから、そこを目指して歩いている。
 もう山の天辺を歩いてきたような気持ちで、それでも坂をのぼり続けた。洞に入る前に辺りを見回すと、ずっと遠いところに青いものが三つ四つ小さく並んでいるのが見えた。地上でも特に高い山々の頭だけが水面を切っておぼろげに光る青色だった。とっくに盆地は水の底。あの青色だって順々に左からゆらゆらしてからやっぱり消えるんだろうと思った。すぐそのうち消えるだろうと見つめていたけれど、なかなか消えない。いつまでも青いものが三つか四つ、ふわふわ遠い空の彼方に並んでいた。足元の水音が大きくなってきて、追われるように洞へ入った。
 洞の中はいっそう暗い。無明の内で一人きりで座っていた。目を開けても閉じても変わらない。耳が慣れてきたのか、水が坂を上がってくる音もそのうち聞こえなくなってしまった。何だかしきりに声がする。俺の声?勿論この洞の中に誰もいないことはよく知っていた。何の声だろう。目を閉じていると、近いところで声が聞こえた。

 

もうすぐ水がくるじゃ―――一つ話を聞かそうか、一つ話を聞かそうか。
 あんた、鱗を見たことがありますか。この辺りは一面途方もない湖でな。大昔のことだ。いや、海の底の貝が山の天辺にはり付いて化石になった、なんてそこまで古い話のことじゃない。恐竜は死んだ、鳥は飛んだ、猿は歩いた、人は服を着た。もう人も獣も木の下を走り回っていたよ。それでも、この辺りの山脈数本は湖の底だったんだね。確かさ。朝陽が湖面に差してさっと輝くだろう、でもまだ対岸は夜の中にあるような湖だったから人によっては海と間違えたかもしれない。けれども、まあとにかく湖が一つあった。山脈の峰が水を止めて、境を無限の葦原と森閑の樹海が争ってね、山と山を幾日もかけて渡る丸木舟が綱の先に浮いていたのさ。舟から綱をたどって、反対側に結び付けた繋ぎ柱は、今日、大山脈の一番最奥の大樹の梢さね。かつて船が波紋を引いた軌跡をたどるのは、天上雲の中にある雪か雨か山彦で、柔かく岸辺の泥で揺れていた水草は砂ぼこりのからっぽです。
 無い。今では無くなったこの湖が消えた話も幾つもあるが、―――まあ詳しくは誰も知らない。話に聞くだけ。何でも一夜の内のことだったのは確かだそうで、月夜の下の地面に染み込んだのか、嵐の晩に竜に化けて雲へ飛んだのか、や、前置き前置き、他の話はこれから話すのさ。
 で、だ、湖が消え去った後の泥沼に大きな鱗が一枚見つかった。何と思う、銀色ノ巨鱗ソノ輝クコト客星ノ暗中雄飛スルニ似タリ、知らないだろう、これからのお勉強だ。ちょっとは学んでみるがいい。山の下の社が作られたのもその時だ。見たことあるかと言ったのはこの鱗のこと。
 今でも鱗が見つかることがある。山を削る大雨の翌日、眩しく輝く淵の下、よく探すと水面と同じ色の輝きが見つかる。実は十分に人の知る話で、詳しい者では、嵐の度に山の方を見上げてうずうずしている奴もいるよ。そういう手合いの家には箱があるだろ、その箱を開けると手の平大の平らな鉱石が収まって並んでいる。粉をふいた貝殻かとも思うが、それも昔は鱗だったには違いないのさ。
 雨に頼るまでも無いんだ。本当は。二十日の入道雲が赤山に影を落とす真夏の日盛りに、ほっと空から涼しさがかかったとき、山の彼方に鱗が透けて見えることがある。なんと巨大な魚かと思う。池の魚が水面のきらめきを慕うように、頭を仰ぎヒレをくゆらす大魚の姿が長い山の上を悠々と泳いでいる。しかも一匹じゃない。群れて幾匹も幾匹も大きなのも小さなのも雲の影から逃れるように陽の下で空をゆっくり。鯉か鮒か、あるいは金魚か、太い腹の下で伸びたヒレがばさりばさりの優雅さよ。
 見たことがない、知らない?そうか知らないか。この魚達は太陽のうらうら陽差しが好物な代わりに低いところ、暗いところは大不得手でね、例え芥子粒みたいな火でも、あればそっちへ、少しでも明かりのある方へ頭を向けるんだ。燃えるような物が大好きなんだね。熱した乾いたもの、陽の反対には陰が在る道理で、大概身体の下半分、尻尾の方は暗がりに入っているんだが――――――暗いとこ寒いとこに半身を置いて、明るいもの暖かいものに向かって頭を寄せ合い皆でじっとする居心地の良さはあんたでも分かるだろう?線香花火みたものだ。は―――知らない?
 ……ふん、冷たかろう、その岩に手の平は。かつての大湖の底は人跡絶えた深山に霧雨が降る度に苔の下から意識を開くわ、目を開く、黒光り、海坊主、無数の甌穴水溜まりで睨むんじゃ、なめらかさ、真っ黒なその表面は長年の間に輪をかけてすべっこくなった。つるつるの流痕を撫ぜてみれば水の冷たさは知れるはず!……。きっとこの穴だって奇岩巨岩の根元で小石がぐるぐる回ってできたんだろう、泡も含まない暗い太い水流の下だ、静寂な渦だ、おややっぱり湿った小石が二つ三つ落ちている。見えはしないがカチャリと鳴った。まあ少し背を楽にして睡るがいい。もうすぐ、水が来るが、まだしばらく大丈夫だ。
 静かに洞の空気が動く。まるで寝息のような。ぐるりと視界が横に逸れる。そこも暗闇。かあっと白い強烈な光が身体をのむ。

 

 目蓋の裏の静けさの、夢の舞台は暗転し、物の輪郭に沿うわずかな線ばかりが残る。地平の反対から青いものがせり上がってくるのを御覧な。涼しい。薄暗く吹き抜ける青い風に青い山、夜夜夜の膝の下で揺れるのは草原の穂、これも青色に。根元のすべすべした小石がかちかち音を立てる。宵の青だ。時も空模様も宵の口、深い原野も鬱蒼と茂る木々も一つ一つに青い闇を込めて。前後の森が黒に固まりツンと触ればオンと泣きそうに見える、そのぼやぼや模糊の上にさらに模糊を重ねた大模糊の膨らんだ青色が森から森への渡りに流れ出したんだろう、土の上、集まり凝った痩せ草が原を為し広大な光の面を溜めた。月の下で風に各々が吹かれても光の水面は揺れないとさ。ちょうど、水銀灯の下の流れの砂のよう。草原の中を柔かい土の道が真っ直ぐに通る。草の穂にもぐって泥土の色がちらほら、丘の森へ入っていく。草の葉は皆一様にとがって、雫を垂れて。ここ数日雨は無かったはずなのに不思議なこと。
 かさかさと老齢で曲がった腰で草を弾きながら婆が一人でこの原を歩いている。垂れた背で上身は腰から横に突き出たようにかぶさり、顔は前を見ちゃいない、あれじゃ土と草しか見えない。鼻を利かすとでもいうように、風と同じ速度でサ―――っと原の中の一本道を、草を揺らしながら通っていく。
 お屋敷の方へ行くのだ。例の魚を何とかしたくって、魚に何とかしてもらいたくて、ただそれだけが頼みで訳も分からず紅葉様のお屋敷の方へ行くんだろう。
 森から腕を出して婆の肩をむんずと掴んだものがある。正面から押し止めて、こいつが無意識という奴だ、太い腕をして高い背をして黒入道坊主ぞ、ちっとも様子が知れない。婆を通してやればいいのにとも思うが、婆の方でも急いでいたばかりで行く先もよく分からなかったのか、男が優しく婆を来た道へ押し返して、結局二人青色の草の上を歩いていく。背景を塗り潰して片方に森がありまた片方にも森がある。婆が向かおうとした森に何が在るのかは分からない。男が押し戻していく道はすぐ森の木の下へ入った。ここ数日雨が無かったのに色んなものが濡れてぽたぽた滴を垂れていた。不思議な事が起こりそうじゃないか、誰かの通った道なんだ、気配が知れる。古い道が堆土を洗われて出てきたのかな、しかし雨ではない、するとこの葉についた露だけが?雨が降ったらどうなるのだろう、また草が寄せ合ってかえって道は隠れるのかな、それとも長く広く伸びるのか。
 

 
 婆が目指していた森は背後に遠ざかり行くが、地平まで暗く黒く、輪郭から離れて今にもドロリと崩れそうな様子。その森も空も潰れて一偏の色も無いかに見えるのに、それでもじわりと赤がにじむ。火の朱だ。婆がそれを見て森へ入る直前肩から腰まで震わせもがく。大男は頑として聞かない。一層速度を上げて森へ吸い込まれるように平行に動いた。
 大丈夫まだ巨魚は来ないと男が言う。婆はそれを聞いてまた静かになった。大屋敷にいらっしゃる紅葉様はまだ庭へお出でにならないし、庭の大櫓の下には現まさに何百本の、土根と葉を付けたままの神木老樹と油壷が並べられている最中だと、その周りでは人も獣も飛んだり跳ねたり座ったりしながら首の痛むまで雲厚い夜空を見上げているのだと、それを聞いて婆の身体は硬くなった。
 婆を抱えて大入道の走る森の中。小さな丸い葉がそこらでボンボン咲いている地面を突き破って数多の巨木が真っ直ぐ空を押し上げている。はりつく枝と葉が幾重にも重なり道はせばまり進むにつれ見る見る林間に冷気が充ち始めた。ところどころ明るいというのではないが部分部分がはっきりと見える瞬間があって、それで婆の顔の方はふと詳細にうつるときもあるけれど、男のことはちっとも分からないのだ。話す声にも掴みどころが無い。ほらまた、風が吹いて葦葉が押されると水の中の根元の茎が動くような声で。婆の肩を押さえ、森の中を過ぎる。
露がびっしょりの大木の幹に手を乗せ道を廻っていく。数歩かけてまだ白い指が樹皮を離れないほどの大木。ようやく離れると、土の道が消え、幕が落ちたように、裏に隠れた小径が代わりに現れる。まるで来た道を折り返すように大木を回って別の道を行くのだ。道はますます暗く、深く、狭く、頭上の端から埋もれていく。葉で蓋をされた小径は丸いすべすべした黒い小石の道。小石同士がぶつかる音と、石の間に溜まった水の跳ねる音が鳴り始めた。
 空気の層が透明なまま違うものになった。大昔にはこの径を舟が通っていったのかもしれない。頭上を舟の腹が抜けていくのが見えるようだった。陸から湖水へ、黒砂利の底が斜に水底まで消えていく。乾いた舟と湖の岸まで導引く、底の小石の長く沈む水路があって、次第に水面と底が合わさりついには玉砂利の積もる道だろう。当時もやはり樹に櫂がギィギィこすれて鳴ったろう。狭い水路の玉砂利が水気を吸い日向へ出て、戻るときにはザバンと波へ受け渡す、舟と何度も何度も往き来し、その度に石の表肌は白くも黒くもなったろう。水が糊で留めた古い森の下の道だ。いつまでもこの道は冷たかろう。カチャリカチャリ音が鳴る。やっぱりそうだ、石の音に、誰かがこの道を通ったことが知れる。先にも後にも一本通が鳴り続けているもの。……。