有名な話だけれど、昔話では、地上に綺麗なもの珍しいものがあれば、魚はそんなものを鱗の中に全部吸い込んで、ずっと空の高みへ消し去ってしまうという。白いところへ行ったままそれっきり戻っては来ないという。その高みという場所で、互いの背やヒレをこすりつけながら、途方も無く大きな無数の魚達がいつまでもぐるぐる泳いでいるのだそうだ。
……初夏の夜の、どこの湖だったか、岸辺に大小無数の魚が集まり身体をすり合わせ、背ビレが月の下でなめらかな波になるという。真黒な浅い湖面に波が立ち、鋭い鱗やヒレがかつ現れかつ消え、暗水の只中にあって白い光が乱れ交うんだとか。雲の上の、巨大な天日の光を一つ戴いて宇宙無辺の闇を切る、それが大魚の背なんだろう。
 話に聞く、鱗の中身は金銀財宝、放っておけ、それよりもその、魚と魚がすれ違う度に背の光が交差する、白光の下の永遠が、それしか無い世界が、懐かしく思われて。
あの魚、森の庭の幼魚は……天の底をプカプカ雲の筋に乗って流れていたんだろうか、きっと独りぼっちでな、あるいはやんちゃして兄弟同朋の泳ぐ群れから遠ざかっていたのかもしれんな。さあ、その無垢をあの大嵐が吹き落とした。
 いいか想像せいよ。巨大な魚達が影を落として浮かぶ、広い広い白い雲の海が畑が広がっている。高いところだ、青い天空の光が強い、輝くばかりの上方下方、小魚がぷかりぷかり群れを離れていく、やんちゃっ子め、雲の棚に影がするする後を追います、追います、……日を浴びてヒレが揺れて、ちょんと消えてしまう、影一つだけ。
 雲の下の暗さも知らないでのどかに、ぷかりぷかり、突如腹の下の雲が乱れて開いた風の螺旋が現れれば魚は声も無く引きずり込まれるはずだ、地面に落ちるまでよほど雷様にも風にもいじめられたかな、地上の川や滝でだって雨後では馴れた魚が溺れ死ぬ……群れを離れた小魚なんて、暗い地面へ叩きつけられて荒れ乱れる森を初めてさまようっきり、可哀想なものだな。
 ただでさえ火の無い暗いところを嫌うんだ。暗い水に落ちて湿ればもう飛べまいに、弱かろう脆かろう雨と泥に塗れれば飛天神通力は失せるものだ、そういう……話だもの。魚はどのみち生きてはいられまい。後で死んでしまったよ。
 迷い込んでな、泥沼の中で可哀想に、けれど映り込む景色はぞっとする地上の闇ばかり、そこを紅葉様が見ていたんだ。動くだけで森の触手が身体の奥までぬるりと入る地獄に現れた仏、畜生でも銀光痛々しくそっと這い寄った。そのはずだ。
 ところがまた雨が激しく降り始めたんだ。風も……風が雨滴を運んで腕や鼻を打ち過ぎていった。
 魚はすぐそこまで来て静止していた。見るにも怖いはずだ、巨大な魚の顔が正面からこちらを向いていて背後は暗い森、強まるまた暗い雨だもの。
 魚顔の怖さと云うものを。小さな剽軽者へ顔を近付けてみなよ、バッタでも蜂でもいい、とぼけた表情が可愛くて小さな翅をつまんでニラメっこ―――指先で腹が丸く動く肢がうごめく、蛙の白腹や紫蘇の葉でもグジュグジュと噛み潰す大顎が三段かつかつかつと空をちぎる。鼻先から放り出す!小物の大きな顔は怖くなって悪夢に出る。
 真円三つの瞳が雨に打たれても動かない。暗い水の底から魚の口が細く大きく動いて息をする?蓮や藻の陰からこちらを見つめる淡水魚のあの不愉快な!無気味な!……。低く雲が押っ被さって背中が森を背負って伸びていく、魚の鼻面はつるりとした無表情。ぶうと息を吐く、いや吐かない。
猛烈な雨さ、過ぎ去る嵐の断末魔だ、けれど短い雨だった。……長くはかからない。波濤のような水と風はもとより、その、地鳴りがね、森を振るわす響きがね、まるで踏みつける巨人の足のように迫ってきて、魚は泳ぐ。
 怖い影を見つけて池の底へもぐっていく。けれど杭の藻をつつく池の広さも無い、濡れた森の下草とのしかかる暗闇に挟まれ包まれては行方が、上にも下にも、右も左も、ぐるりと泳ぐ―――かつ逃げるべきものは天地の水なんだ。知らん顔で魚を包む水が怖いとさ。そのときには不安げに目が揺れていたと言うものね。雨が襲った。
 巨大な魚は身を翻えし横手へ泳いでそこの森から今来た方に古屋敷の軒がある裏の方へス―――っと。その後をすぐ吠え滾る雨と風の音、地ではじけ逆立つ雨が続きます。轟然だよ。
 魚の身体を抜ける銀色の、光が消える途端には低い葉でも高い葉でも大粒で撃たれて飛沫を散らして、それから、地面が上擦ったかの水煙。怯える。震わす。耳を聾せんばかりの雨音で、手首へも柱から水の蛇がちょろりと躍って、すぐにこの部屋の隅々が、湿気の、闇の、その冷たいところ。
 雨を吸い膨らむ暗い森の線が激しい音でぼやけていく。手元の柱と遠くの闇がどっぷり墨をかぶり境目の無くなるそのもう少し先、寂しくなるところで銀の鱗が怪光を放つ。たまに近付き、遠ざかり、―――どうやら大きく泳回しているようだった。
 そうさ瀕死の傷でもがくんだ、上顎に針をかけた血まみれの魚が引きずられるのに抗うのさ、―――胴半ばまで串刺しにされた雀が小石を叩いて転げまわるとか首の千切れかけた鼠の長い尻尾だけがいつまでも暴れるとか、見えないところで光が散るだけ恐ろしい。水煙が血の赤に見える。死ぬぞすぐ死ぬぞ……。見なけりゃいいんだけど、でも可哀想で痛々しくってね。
―――魚は水煙の中を屋敷の裏へ泳いでいった。泳ぐその速さが並大抵ではなしあの巨体ではあり、暗いところに銀の光が縦横無尽……乱れ交う。湧き上がった無数の蟲が銀色の雲になり覆うように地面の凹凸が森と言わず屋敷跡と言わず這い回る、木に飛んで石に移り庭を染めて―――ぐわんぐわん!嵐で折れていた細い枝が樹皮一枚でフラフラ揺れると、宙に銀の光が走ってすぐまた下へ。周りは大雨、銀色に光る、あんまり目まぐるしくて……それに暗かった。
婆は目の前で暴れる雨の轟きに呑まれていた。
 婆を担いでいた男が時も無く唐突に走り出した。まだ見果てもしないのに、土足の脚が廊下の暗闇へ飛ぶように動いた。婆は背中でガクガクと揺られる。―――腰が伸びて首に巻いていた手が離れ、婆が一瞬ぶらんと上半身を投げ出してしまう。……腰は付いたまま残ったから落ちはしないが、頭は床すれすれを掠めて見た。垂れた反動でまた次の瞬間には男の背にくっついていた。落ちて上がった、ただそれだけの息も鼓動も一回きりの間のことで、ところが左手に何か硬い大きなものを握っている。再び男の首に巻き付けた手の中に、肉を抉るような鋭い平たいものがある。落ちた瞬間……?頭の中でゴンと云った、頭蓋をぶつけたのだろうか、衝撃で上下の顎が当たったのだろうか、それはそれは大きな音が確かに聞こえたあの瞬間、婆も世界もぶつりと切れたようでその前後のつながりが不明瞭―――断絶して目を見開いてこの、手の中の……むむ、鱗だ?

 

 暗闇が突如明るくなった。それは明るくなったなんてもんじゃない、雨も夜も屋敷の隈も跡形も無い、重苦しく眩しい真夏の森の中を走って行く。目の前の葉や幹から光がこぼれ目が痛い。どこからか雀のじゃれ合う声がチュンチュンチュン、ピピピピ……。ぱちくりぱちくり。

 轟音一発砂―――砂―――砂―――泥―――あのお屋敷は背後でふっ飛んだ。それ土砂が湧く。後ろの森の向こうだ、噴き上がったものが宙へ散って赤い霧のようだ……塵のような……ふと夕日が落ちたような。ひどく恐ろしく寂しく、山ごと暗くなる。地が傾いたかと思うと、石も柱もミシミシと打ち上がってすごい音で割れる。走りながら振り返るとその様がよく見える。木の両脇を黒い流れが駆け抜けて……まだ、まだ終わらない。ミシリミシリ聞こえるとバリバリ響くのは森の中の木が幾らでも薙ぎ倒されていく音だろう。山も地滑りを起こす。巨石も森を流れる。百年二百年も地の底で堪えてきた巨石が膝で蹴られた鞠のように跳ねて飛んだところをまた下から突かれて空を遠くに消えていく……どうしたことだ。真黒な土と木片と木の葉と虫の死骸と、そんなもので世界は詰まってしまった。乾いてはいても、流れと呼びたい、黒い土はいつまでもぶ厚いまま流動して止まないんだ。
 婆も男も土石に追いつかれたり追い抜かれたりしたんだろう。拾ったばかりの大きな鱗を失くしてしまった。樹幹からぴょこりと小さな緑色の双葉が飛び出しているのを見つけて、すぐに土埃が被って茶色く汚れていって、のんきなこと、太い幹を見上げると頭のずっと上まで黒い濁流は伸び上っていて、それが細い枝ならぱりぱりにへし折って運び去ってしまうのだ。

 しばらくは柔かく重たいものを押し流す土泥と硬いところに石榴をつくる小石と木片の嵐が続いた。星と星が衝突ったような大音上弩級の破砕も、ひらりひらり木葉と塵が地面の上で舞って静かに回れば唐突な静けさ。しんと終わってしまう。後には埃が風で右往左往、向きを揃えて森の間を抜けていくばかり。元来の色を取り戻した陽も次第に差し込んでくる。塵と薄光の中に残った木は森を形作って見慣れた景色さ。そうだ、だってここはまだ夏の静かな昼過ぎだもの。
 どこをどう通ったか、開けた場所に出た。既にまた快晴である。平らな川底の水溜まりに青空と遠くの白雲が映っている。夏の地べたがだんだんと暑くなるにつれ谷の色は白く輝く、ぼうっとしたね、さあっと降り余した森の雨滴はさっきからキラキラ眩しいばかり―――間から鳴き出す蝉の声。
 谷、崖、森を抜けて歩く道はゆるやかな上り坂。ここからなら背後の樹海がどうなったかも分かるだろう、さて今出てきた腐れた森はどちら……?とまずは高いところから様子を伺うつもり。
 
 山道の一番天辺に枝がよく繁る大木があった。今は何匹も蝉がついてとてもにぎやかしかった。のぼっていくとその下に、蛙の形をした大きな石が一つあった。うずくまる蛙そのままの形で年中口を閉じかしこまり前を向いたまま、何とも愛らしい格好だ。人が―――この婆が、鼻先へ腰かけて両眼を掌で撫でてやると宙へ下げた足が地面より身体半分も浮いてぶらつくような巨大な石蛙なんだ。蛙のうっとおしそうなへの字の表情。ひんやりとしていた。
 石の蛙が睨む先に裏山の膨らみは切れて、鬱蒼と茂る森が広がっている。高く陽を浴びる梢が柔かい麦の新芽の畑のようにどこまでもどこまでも、明るく照り輝き緑にも金色とも。けれど足元をさらう一陣の山風が轟と鳴るなり、平和の畑は割れてその下から汁まみれ、暗くて青い大樹の幹枝がざわざわ揺れた。嘔吐くような強い匂いが蛙の鼻先までぷんと立ち上る。
 気味の悪いものが口を開ける。ぬらぬらと青臭い匂いで、毛が逆立つようだった。普段は誰も足を踏み入れない人不入森だからな、そうさどこのどんな森だってこの森には及ぶまい。白神の原生林も屋久島の大杉も、この荘厳には及ぶまい。深甚たる魔所だよ、かつ恐れかつ敬う海のような森だった……はずが……神気を放つ星霜大森林の海原に一ヶ所、真四角なハゲができていた。
蛙の上から眺めて黒地に白い布を当てたようだった。本殿を前後に挟む庭の白砂、伸びた廊下や離れ座敷の材木までも白いのか。池は無い、塀はある、立派なお屋敷が森の一画を弾き飛ばして威風堂々と一揃い。
あれが噂の紅葉様の大屋敷。
今、寝殿の前に5つの人影があった。遠くから白いところの小さな点になっていて虫のよう。ちょっと広いところで落ち着かないのか、5匹の小虫達は腰を低くして顔を見合わせては肘でつつき合ってそわそわ。突然一斉に同じ方へおじぎした。寝殿の方―――隠れて見えないがおそらく階段がある―――に誰かいるらしい。もちろん、言うまでも無い、もうここに住んで居らしたのだ。ついで何かを話し合っているようだけれど、その度に五人の頭がてんでに上下する。上がるときには肩と首をひねって話を伺いますの気合い、下がるときには腰から深くかがんで平身低頭の構え。あの台風で里村にも大いに被害が出たのだろう。年が経っても直らないもんだから、噂の紅葉様に助けを求めに来たんだろう。
見ている間に、するするとそのまま全員が屋敷の中へ入ってしまった。
外から屋敷に入る道は一つ。出る道も同じ一つ。正面から細い道が木々の間をにょろにょろ森の中へ消えていた。
あの道まで下りようか。ところが蛙の山からは屋敷を一回りしなくちゃいけない。それならお屋敷の裏庭が見えている、近いそちらに下りようと思う。
降りそそぐ日光はいよいよ暖かく、風はときおり山から吹き下りていく。尻で飛びおりたとき指で眼を引っ掻いても踵が喉を蹴っても知らん顔。つれない蛙だ。そんなに日差しが気持ちいいか。
目が眩む目が眩む。底が抜けていく。ピカピカしていた鱗は失くなってしまった。特別に綺麗な青だった。あの青さ。石につく小さな丸い頭の川の魚のようだった。いるだろう、大きな目と平たいお腹で貼り付いて流れの水で黒い背中の青い模様がゆらゆら揺れるヌメヌメ指先くらいのが。扇みたいなヒレの中まで黒くて青い筋の光が走るヤツ。葦の緑と混じる水が割れるような青がもっと鮮やかな素晴らしい……だったのに……。大きに泥で汚れたろうな。土の下に埋もれてしまった。埋もれた鱗から大屋敷が飛び出してあの濁流を産み出した。鱗は失くしたわけだよそれだもの……あれだけ綺麗なお屋敷を天の魚が飲んでいたんだ。それならそうか仕方無い。
婆が歩く足元から草いきれが立ちのぼる。け立てて進むのんびりとした砂の小径は屋敷の横の裏へ下りる。
いつの間にやら婆は一人切りなんだ、そうして歩いていく。
下りると森へ呑まれる。黒い、青い、水が滴り、枝が打ち合うのか、絶えず高い所で音がする森を通り抜けた。背筋まで冷たくなったころにようやく、あっけなく、光が差しこむ。
この辺りが濁流が木々を押し倒した場所だろう、地に何だか分からないふかふかした層ができていて、足の指の間へかぶさるくらいに沈み込む。ふかふかと柔かい……高くなった道を行くんだ、進んだ後に足跡が残るんだね。
 二歩三歩、大樹が道を塞いでいる。雪崩はここで積もったのだ、大樹の先に大樹が重なり壁になって行く手を妨ぐ。その表側がずたずたに荒く破れている。土流の破片の威力は目にも明らか。抉られ挘りとられた白い身肉が毛羽立つ、骨まで見えそう、そして宙へさらされた傷へ塵が塵を呼び大量にかぶって膨れ上がっていた。むしろ凹んだはずの箇所がこちらへ迫り出してくる、とそんなふうに見える……表面が、トロリと崩れる。
 血管を傷付けられ流れ出した樹液が漏れ出していた……我が身を惜しんで悲しい悲しいと涙で泣くようだ。流れる液が周りの塵をくるりと浮かして貼りつけて回る、ドロドロした丸い塊になって、―――決して真っ直ぐには進まん―――凸凹を超えながら大きくなって樹の幹をすべり落ちてくる。一つ幹に二つ三つとろとろ進んで追って合わさって……林立の隣も隣も一つ二つ三つ。そこら中の木の白い粉に覆われる縦の面から拳より大きい粘液があちらにこちらにクネクネと這って姿を出す。ああ垂れてくる。唾をのんで……ちょっと怖くなって道の先へ駆け出す。
森の奥へ、深く積もった塵か木の屑か、相変わらず高くなり低くなり前へ寄りかかると踏ん張った足が沈むはっきりしないところを歩いていく。両側に木は続く。一面が塵埃。まあ仔細はない、抉られて木々の形は変わっても森と屋敷の位置関係はさっき確認して分かる……時折遠くでガラガラ何か崩れる音はしたけれど静かな、そして落ち込んだような森の中。道の先に覚えのない廊下がある。
地面の続きが盛り上がって乾いたような長い廊下だ……屋根付きの廊は橋のように反って雅に乾いて白く行く手を妨いでいた。
暖かな光が満ちていた。廊に押され盛り上がる陽だまりにも平和そうにふわふわした毛玉のような苔が安らいでいる。森の中では毒気ありげな巨大粘菌だったくせに、恥知らずめ、見よお前以外の森の子達は不届きな角材造りの闖入者を太古のうねり以て捻じ切らんとしているぞ!―――森の大事の木々を何本もへし折って、この屋敷の廊は異物邪魔者。
人より大きな瘤を幾つもこさえた巨老樹が年に似合わぬ大力で、神宮の社殿のような紅い漆塗りの細やかな組木で彩をつけた欄干と衝突かっている。……いや、押しのけられている。青々と若葉が繁る巨体が竹串のような飾り物のせいで歪みつんのめっている横では、同格の古強者が、こちらは見事な根を日光にさらして完全に横倒しに。……開いた空から漏れ込む光の中では埃が舞うのだ。
一体何が……?
欄干の飾りの薄い板に樹皮のかたまりが乗っていた。倒れている古木から持っていかれたのか。紅葉様がつまんで除けると傷一つ無い欄干は燦燦と輝いた。地面の死に木にくっきり飾りの影が浮かんだ。やっぱり木の方が負けたんだ。
中心から屋敷は伸びてきたみたい―――とても無理矢理に。
ゆっくりほこりが漂う廊下は白砂利の透けるように光る庭に開いて明るい。くしゃみをしそう。それにとても静か。でもそのまま廊下を進んでいくのは薄ら寒い。から、とん、とん、とんの拍子で上るとみえてすぐ中庭へ飛び下りて。
庭の大きな縁に沿って、ぐるりと四角く寝殿の正面へ向かっていく。
巨大な建物―――巨大な庭、塀。建物の陰で厚く積もる苔を見つけた。苔が―――、屋根から垂れる水を吸って膨らんでいるらしい。視点の置き場所ができて少し嬉しくなる。白庭に黒一点、いややっぱりお前は頑張っているよ。
人の声を聞く。一つの廊がまた別の廊へ合わさり第三の廊へつながる奥から漏れ聞こえてきた。何だろうなあ……離れた方にあるが果たして……?婆は廊へまた上り庭から離れた。その長い黒髪を背に流しつつ、柱が三つ重なる影でふと薄暗くなる角を右に折れまたのんびりと……再び影がぱっと見えて建物の裏へ消えてしまった。最後に髪の先が残って揺れた。